根岸競馬場跡は、現在の根岸森林公園がある高台にあります。

実際に根岸駅から歩いてみるとかなりの坂道。現在の感覚では「競馬場を造るなら、もっとアクセスの良い平地の方が多くの人を呼べたのでは?」と思ってしまいます。
なぜ、わざわざこの場所に競馬場を造ったのでしょうか?
その理由を知るには、横浜開港直後まで歴史をさかのぼる必要があります。1853年にペリー率いる黒船が浦賀へ来航し、1859年には横浜港が開港しました。すると横浜には多くの外国人が暮らすようになり、西洋文化の一つとして洋式競馬も持ち込まれます。
1860年には現在の元町付近で競馬が行われ、1862年には現在の中華街付近にあった横浜新田に円形の馬場が造られました。その後も周辺で競馬が行われましたが、横浜の市街地が急速に拡大していくなかで、本格的な競馬場を確保する必要が出てきます。
そこで選ばれたのが、現在の根岸森林公園がある根岸の高台でした。では、なぜ根岸だったのでしょうか。大きな理由として考えられるのが、次の3点です。
① 外国人居留地から比較的近かったこと
当時、競馬を楽しんでいた中心は横浜に住む外国人でした。そのため元町や山手などの外国人居留地から近いことは重要な条件でした。
② 市街地や東海道から少し離れた安全な場所だったこと
当時は生麦事件なども起きており、外国人と攘夷派との衝突が懸念されていました。
現在なら「人通りの多い場所=便利」と考えますが、当時の外国人にとっては、人の往来が激しい場所から離れていることがむしろメリットでもありました。
③ 本格的な競馬場を造れる広大な土地があったこと
現在の根岸森林公園を歩いてみると分かりますが、坂を上った先には驚くほど広い空間が広がっています。
周回コースや観客席などを備えた本格的な競馬場を造るには広大な土地が必要です。市街地化が進んでいた横浜中心部では確保が難しくても、当時の根岸の高台にはそれだけの土地が残されていました。
つまり、現在の私たちから見ると「アクセスの悪い高台」に見えますが、当時の競馬場にとっては、
外国人居留地から近い
+人の往来が多い場所から離れている
+広大な土地がある
という、むしろ好条件が揃った場所だったのです。
そして重要なのが、当時の競馬は現在のように大勢の一般客を集める娯楽施設とは少し性格が違っていたことです。外国人社会にとって競馬は単なるギャンブルではなく、社交の場でもありました。
根岸競馬場はその後、日本人の政財界人や皇族なども訪れる場所へと発展し、明治時代の国際交流や西洋文化を象徴する施設の一つとなっていきます。
つまり、「こんな不便な場所に、なぜ競馬場を造ったのか?」
という疑問自体が、現代の競馬場の感覚から生まれたものなのかもしれません。
当時は大勢の市民を呼ぶことよりも、外国人居留地から近く、安全で、広い土地を確保できることの方が重要だったのです。
~時系列のまとめ~
1853年:ペリー率いる黒船が浦賀に来航
1859年:横浜開港
1860年:元町付近で洋式競馬が行われる
1862年:横浜新田で競馬が行われる
1865年:諏訪町・大和町周辺でも競馬が行われる
1866年:根岸競馬場完成
1867年:根岸競馬場で最初の競走が開催
1937年:横浜競馬場へ名称変更
1942年:競馬開催終了
1945年:終戦後、連合軍に接収される
1977年:根岸森林公園開園
現在は広大な芝生が広がる静かな根岸森林公園。
しかし、その土地の形や旧一等馬見所などの遺構を見ると、ここがかつて日本の洋式競馬発展の中心地だったことを今でも感じることができます。


壊すこともなく、再利用されることもなく遺された「一等馬見所」は歴史を感じます。
