現在、ららぽーと横浜が建つ場所。しかし、かつてここには巨大な工場が存在していました。
なぜ都心でも臨海部でもない鴨居に、大企業の大規模事業所が作られたのでしょうか。その理由を探ると、横浜の都市発展の歴史が見えてきます。
① 昭和初期までの鴨居は「農村」だった
現在の鴨居からは想像しにくいですが、昭和の初め頃まで、この地域は横浜北部の農村地帯でした。鶴見川沿いの低地には田畑が広がり、南側の丘陵には雑木林が残る、いわゆる「谷戸の里山風景」が広がっていました。
当時は横浜中心部からも離れており、大規模な工業地帯という雰囲気ではありませんでした。
② 戦後、高度経済成長で「広い土地」が求められる
大きく変わるのは戦後です。1950年代後半から1960年代、日本は高度経済成長期に入りました。
企業は、
- 工場の拡大
- 研究開発拠点の確保
- 大量生産体制の構築
のため、広い土地を必要としていました。しかし、横浜駅周辺や京浜工業地帯の中心部はすでに土地が不足し、地価も上昇していました。そこで注目されたのが横浜北部でした。
③ 鴨居は「工場を置く条件」が揃っていた
鴨居には、大規模事業所を置くうえで好条件がありました。
・ 広い土地が確保できる
当時の横浜北部はまだ農地や未利用地が多く、まとまった土地を取得しやすい地域でした。
・ 都心へのアクセス
1960年代以降、横浜線の利用価値が高まり、横浜方面や東京都心方面へのアクセスも確保されました。
・ 住宅地としても発展できる
工場ができれば従業員が必要になります。
その周辺には住宅地が形成され、街が成長していきます。
④ NEC横浜事業場の誕生
その流れの中で、NEC(日本電気)は1969年に横浜事業場を開設しました。NEC
ここでは電子機器や情報通信関連の研究・開発拠点としての役割を担い、長年にわたり鴨居の象徴的な存在となりました。また、鴨居周辺にはNECだけでなく、パナソニックなどの大規模事業所も立地し、横浜北部の工業エリアとして発展しました。
⑤ そして時代が変わる
しかし、平成に入ると産業構造が変化します。
・国内生産から海外生産へ
・工場から研究開発拠点へ
・大規模事業所の再編
が進みます。かつて街を支えた巨大事業所は、その役割を終えることになりました。
NEC横浜事業場の跡地は、その後三井不動産によって開発され、2007年にららぽーと横浜として生まれ変わります。
※土地的観点

真ん中の「+」がららぽーと横浜のあたりである。青が低地、赤が丘陵(海抜30m以上)となっている。東はすでに川崎や京浜工業地帯で使われており、北も南も西も丘陵地帯。このららぽーと横浜の場所が大工場を立てやすい合理的な場所だというのが直感的にわかる。
